沼の原・五色が原の中間地点より

石 狩 岳 1996年7月20日(土)

石 狩 岳
1996年7月20日(土)

登山口

登山口に到着すると既に3台ほどの車が駐車しており、今にも登山口を出発出来そうないでたちをした屈強そうな男たち4人組と、女性を含む6~7人のパーティがいた。さっそく自分も準備をと気があせったが、まだ朝食を取っていないことに気づいた。ここは落ち着いてまずは体力の源となる食事のことを考えなくてはならない。これから登るシュナイダーコースの激しい登りに備えてしっかりとカロリーを取ることとした。

結局、登山口を6時30分に出発、他の人たちはユニ石狩コースから縦走するつもりなのか、半分くらいはいつのまにかいなくなってしまった。また、残りの人もなかなか出発する気配がなかったので、結局自分が先頭をきることとなったようだ。

出 発

登山口を出発してすぐに小さな鉾らがあり、コースの安全を願う関係者の思いが感じられた。すずを鳴らして手を合せ、意を新たにして出発した。

コースは沢に沿って左岸を進むが、水の流れる道に左右から夏草が被さった快適とは言い難い状況がしばらく続いた。途中、砂利が山から水に載って流され、体積したように見える場所を通過する。このあたりは大昔は(も)河原であり、地層の中に砂利の層があるとみえる。山肌におびただしい量の砂利が露出している。大雨の度に沢の状況が激しく変るという、この沢の特徴はそんなところからきているのであろう。

ササをきり開いたところを通過すると、道は、林道の跡地を進む。植林したのであろうか、同じ種類の若木が多数成育しており、周りとは明らかに植性が異なることが一目でわかる。よく見ると太い木にとなりあった細い木はすでに枯れているか、あるいは勢いを失っており、厳しい生存競争の一面をまざまざと見せつけている。

道はやがて沢を渡り、右岸を進み、程なく尾根に取りつく。時刻は7時10分であった。ここから、猛烈な登りの始まりである。2~3度電光型に向きを変えて登ったあと、西に回り込むようにして尾根上に出る。そのあとはひたすら忠実に尾根をトレースすることとなる。

尾根は樹林帯の中にあるが、適度に空間が空いており、眼前に迫る石狩岳と音更山の屏風のような風景ばかりか左右に切れ落ちた底の沢音を聞きながらの登りは、まるで舞台の花道を進むような感覚となる。日ざしが強かったが、樹林帯が適度な日陰を作り出すことから、暑さにバテルこともなかった。

やがて西側の尾根と比較してその中たるみ部分の高さを超えるようになると標高1400mを超え、尾根の傾斜はさらに強くなるとともに、尾根筋は多少の乱れを伴うようになり、ルートは変化に富んだものとなる。ロープが2箇所、5~6mの岩場も表れ、油断できない状況となる。いずれも通常の登山の範疇としては危険な箇所とは言えないが、急傾斜の連続でバテたりしてバランスを崩すと危ない。沢へ向かっては岩場はないようだが、傾斜は少なくとも60度はあるようであり、落ちたら(無事としても)登り返すのは楽ではない。

ニペソツ山遠望

尾根のキャンプ指定地付近から石狩岳

尾根の傾斜がきつくなるのは尾根筋全体の半分程の所からだが、感覚的にはもっと上部に近く思える。そのためか、吊り尾根が近くに見えながらなかなか着かないあせりを味わうこととなる。目的地が終始見えていることの弊害だろうか。

途中"ニペの耳"(通過地点の名前、本当の"ニペの耳"は石狩連峰の反対側にある。)ではニペソツ山がよく見え、空気の透明感も申し分なく、絶好のシャッターチャンスを得た。この角度から見るニペソツ山はかの槍ヶ岳にも似て山頂を天空に鋭く突き上げる。やがて"かくれんぼ岩"を経て相変わらずの急傾斜と粗削りのコースに泣かされながら、吊り尾根分岐に10時10分到着した。あくまでも尾根筋に忠実に端から端までトレースするまさに体力勝負の"使役"コースであった。

分 岐

分岐はつり尾根の中間にあり、東側に音更山、西側に石狩岳を持つピークによって吊り上げられているような場所であり、北側に大雪連峰、そして南側には今登ってきた高度感のある尾根と深い音更の沢を従えて、遥かニペソツ山に続く広大な緑の尾根が広がっている。

左右の石狩岳と音更山は圧倒的な迫力を持ってせまり、北の大雪連邦は豊富な雪渓に白く浮び上がるまぶしいほどの中央高地であった。

分岐にはテントを2~3張りできるくらいのスペースがある。ここを基地として音更山と石狩連峰をじっくり登るというプランも可能ではないだろうか。例えば、ここからニペの耳まで1日行程で往復するというようなプランは石狩連峰を十分に堪能できるに違いない。

疲れを癒してくれるお花畑

この時点で空腹感を感じていたが、既に足の筋肉も限界に近く、ここで長時間の休憩を取ると、先が続かなくなる感じがしたため、10分間ほど休憩した後、あえてそのまま頂上まで行くこととした。分岐は10時30分出発。最初は快適な散歩道、そして次第に傾斜がきつくなり、道がジグザクをきるようになると高山植物も増えだし、お花畑の中を登っているような感じになる。ミヤマキンバイの黄色い花が風にゆられて咲き乱れており、先を急ぐ気持ちも忘れて1歩1歩に満足感を感じながらの充実したのぼりだった。ここはコース中最も楽しい部分だったと思う。頂上までは1時間程度と見積もったが、以外に速く、実際には45分で、11時05分には石狩岳山頂に到着した。

頂 上

頂上の標識

ついに果たした(私にとっての)初登頂。このピークに立つことをを何年想い続けたことか。大島亮吉の「山」や伊藤秀五郎の「北の山」を何度も読み返し、彼らと同じような感動を自分も得てみたいものと思い続けてきた。そしてその願いがかなった。

大島亮吉と同じように、地図を広げて、見えるピークをひとつひとつ確認していった。どのピークも登っていないものが多いのだが既に読図の繰り返しによって愛着を感ずるほどになじみのものとなっていた。1つ1つのピークを発見というよりは再会というような感覚で地図とのリンクを確認した。

頂上で腹を満たし、写真撮影も済ませて荷物の整理をし、とりあえず下山の支度したところで、まだ時間があるので、一眠りするこことした。時間が押しても 21 の沢に下りてしまえばそのまま車の中でも寝れると思うと、どうということはない、下山開始までにはまだ数時間もあることになる。日よけのために適当にあるものを体の上にのせて、そのまま眠ってしまった。どのくらいたっただろうか、ジリジリと焼けるような暑さで目がさめた。なんと肌がヒリヒリするではないか。強烈な紫外線にやられたようで、すぐに捲り上げた袖をおろしてタオルでほおかぶりした。30分くらい寝ったようだ。なごり惜しいが降りなければならない。

下 山

頂上で約1時間すごし、12時5分に下山開始、吊り尾根は12時30分に到着、5分休憩して、12時35分に登山口目指して分岐を出発した。尾根の取り付に到着したのが14時5分であるから、吊り尾根本体の下降時間は1時間30分であった。

下山は意外に速いペースであった(駆け下りたという感じか)。登りで釣り尾根についた時点で足の筋肉に疲労を感じていたが、頂上の休憩で回復したようだ。してみると本質的な疲労ではなく、登りのピッチが速すぎたということなのだろうか。

アプローチを歩き、登山口に到着したのは14時35分であった。上り4時間35分、下り2時間、合計6時間35分のアルバイトであった。

登山口から振り返る石狩岳は午後の日差しの中に、見上げる角度をもって何もなかったように存在していた。その急峻かつ鋭い尾根と深い沢を従えて、すでに自らの時間のペースに戻ってしまっているようであった。"それじゃ"、心で別れの挨拶をし、21の沢を後にした。

後日考(2020 年 12 月 26 日)

大正 9 年( 1920 年)7 月、ちょうど 100 年前に大島良吉はここ石狩岳の頂を踏んでいます。1978 年初版の彼の著書「山」からそのときの記述の一部を引用すると、

「地図を岩の上に引き拡げて、眼に入る山々の一つ一つを順に地図上の山名と引き合わせる。」

そして、

「しかもその奥深い核心をなすこの地点に立つ自分たち四人の存在を思うと一種恐怖の感情にも相似た強い自然の圧迫をひしひしと胸に感じないわけにはゆかないのである。」

これを読んで"自分もそこに行かねばならぬ"と、そして"同じように地図を広げてみたい"と思ったものです。このホームページはいまから24年前、彼の登頂から 76 年後の 1996 年の記録です。

さて、標識は別として、大島の登頂からこの間、頂の様相は何がどのように変わったのだろうか。人間と大自然の時間軸の長さの圧倒的な差を"ひしひしと"感ずること、これも登山の動機の一つに違いありません。「そこにあるから」の今日的解釈かとも思います。 先人たちの記録を読んで、そこに行き、帰って自分も記録を書く、一粒で2度ならぬ3度おいしい旅の楽しみです。

※引用:「山 -随想-」大島亮吉著、中央公論社刊1978年

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